その日に描いたのは青い空だった。
抜けるほど青い、眼の覚めるようなスカイブルーの青空を背景に、中心にはユグドラシル。世界樹の上で、鳥達と歌う少女。
透明で繊細な世界。
ようやく完成した絵画を眺めて、私は窓の外を眺めた。
見事な朝焼けだった。頭に巻いたバンダナを外して、テーブルに置く。
眠い。少し眠ろう。
二階にあがる前に、もう一度あの絵を見た。
高校生になって、一週間。
私はようやくあの日からの宿題を一つ終わらせたのだ。と、思う。


「起きて。朝だってばー。ほらホントに起きろってば。マジでシャレになんないから」
「め、ざまし……」
「目覚ましがどうしたって?」
「目覚まし……止めて」
「ねえ、思いっきり二度寝しようとしてるよね。今日月曜日だからね、言っておくけど」
おーい、と私を揺さぶる勇人を尻目に私は右手を伸ばして目覚まし時計を叩いた。本気で、煩い。
あと二時間は寝ていたい気分だったけれど、流石にそうすると遅刻してしまうだろうから、もそもそと身を起こした。
「おはよう、」
こくり、と頷いて立ち上がると勇人は苦笑いをしながら部屋から出て行った。
「寝癖ついてるよ」との捨て台詞を残して。
その姿を見送って溜息をついた。どうして勇人はこう面倒見が良いんだろう。(ああ、それがあいつの性分なんだ)
とりあえずパジャマを着替えて、髪を後ろで結った。
机の上に投げ出されているペンケースや課題を鞄にぶち込んで、部屋を出る。
「お待たせ」
「いや、そこまでは待ってない。ていうか、準備早いよね」
「特技だからね」
そう返すと、また勇人は苦笑いを浮かべて階下に下りて行く。その背中に着いて行くようにして、私も階段を下りた。
「完成したんだね、これ」
ダイニングに置き去りにしたままのキャンバスを指差して、勇人が言った。
「やっと宿題が一つ終わったんだよ」
冗談っぽく言ったつもりだけど、勇人は少し哀しそう微笑んで目を伏せた。
ああ、私だけじゃなくて、勇人もきっとまだ吹っ切れてはいないんだ。そう理解し、私もなんとなく俯いてしまう。
「タイトルは?」
不意にそう尋ねられ、まだタイトル決めていなかった事を思い出した。
少し考えて、口を開く。
「鏡の向こう」
勇人は一瞬目を丸くしてから、また少し哀しそうに微笑った。
「良いと思うよ。凄く」
「ありがと」
その返事に勇人は小さく笑って、「そろそろ出ないと本気で間に合わないよ」と言ったから、私たちは急いで駆け出した。

「って、栄口と仲良いわよね」
お昼に購買で買ってきたパンを齧りながら、友人であるゆいちゃんが呟いた。(本名は確か“ゆいこ”だったような気がする)
「仲良いとかじゃなくて、幼馴染なだけだよ」
「あっそ」
相変わらずゆいちゃんはクールだ。
物凄い美人な癖にかなり冷徹な性格だから、中学のときは影で『トゥーランドット』とか呼ばれてた事を思い出した。
殺戮の姫。ああ、ぴったりだ。と、そう思ったのだけれど、言ったらきっと怒られるだろうから、やめた。
「まあ、少しずつ元に戻ってるようで安心したけど」
その言葉が、ちくりと胸に刺さる。
ああ、ゆいちゃんはきっと、私の気持ちなんてお見通しなんだろう。
「ちょっとずつ、だけどね」
「止まったままよりは随分マシじゃない?」
「あはは、そうだね」
微笑んだゆいちゃんはとても綺麗だ。彼がゆいちゃんに恋した理由が解る気がした。
二人でクスクス笑っていると突然クラスの男子が「ー」と呼んできたので、私はゆいちゃんに断ってから席を立った。
「ああ泉くんか。どうかした?」
「呼び出し。1組の栄口がお前の事呼んでる」
そう言って泉くんは私を連れて教室の扉まで歩いていった。
泉くん。本名は泉孝介……だった気がする。
同じクラスの三橋くん、田島くん、そして勇人と同じ野球部だったと記憶している。
「連れてきたぜ」
「ああ、ありがとう泉」
「別に良いけどさ」
泉くんは素っ気なくそう言って、教室の中に戻っていった。
「で、何か用?」
「用がなきゃ来ないよ」
苦笑してそう言う勇人に、そっか、と私は呟いて先を促した。
「あー、今朝の内に渡そうと思ってたんだけどさ、これ。お守りなんでしょ? テーブルに置きっぱなしだったから持ってきたよ」
そう言って勇人が出したのは、キーチェーンの付いた空色と藤色の小さなくま。間違いなく、私がお守りとして身につけている双子のくまだった。
テーブルの上に置いたまま忘れるなんて、私もどこか抜けているなあ、などと思いながら勇人にお礼を言ってその二つを受け取った。

「なんだって? 栄口」
いつの間にかパンを食べ終わっていたゆいちゃんが、席に戻るなり訊いてきた。
「忘れ物を届けにきただけだよ」
「ああ、それか。忘れるなんて珍しい」
「ちょっと、絵描いてて……」
ぽつりと呟いただけのはずなのに、ゆいちゃんはそれを拾ったみたいで視線を窓の外から真っ直ぐ私に戻した。
「完成したの?」
嬉しそうなその言葉に、私は頷いてみせて、ゆいちゃんはとても嬉しそうに笑った。
すごく綺麗な顔で笑うから、私も少し安心する。(ゆいちゃん、あの絵完成するの楽しみにしてたからなあ)
「明日、持ってくる」
そう言うと、ゆいちゃんは微笑んで、楽しみにしてるよ、と言ってくれた。





記憶はあまりに繊細で、透明で、壊れてしまいそうで

(現実は幻想のように美しくなんかないのに)